『超かぐや姫!』の技術的考察 C|かぐやとヤチヨの分岐構造
前章では、仮想世界「ツクヨミ」の構造と基盤について整理した。
次に検討すべきは、その内部で活動する存在そのものの問題である。
とりわけ重要なのが、かぐやとヤチヨの関係である。
本章では、この二者の時間的・存在論的構造を考察する。
かぐやとヤチヨの関係性について
作中では両者は別個の存在のように描かれているが、時間軸を基準に再配置すると、本質的には同一個体の異なる時間断面であると解釈できる。
かぐやは時間遡行事故によって八千年前の地球へ到達し、そこから八千年を経て現在へ至る存在である。ヤチヨとは、その時間を実際に経過した側のかぐやである。
このとき発生しているのは人格分裂でも転生でもない。
同一存在が時間差を伴って並立している状態である。
さらにヤチヨ自身が「今もまた、同じ輪廻を巡っている」と語ることから、この構造は一方向の時間移動ではなく、循環的自己追跡である可能性が高い。
したがって本章では、
・前半と後半における“かぐや”の差異
・思念体と外殻(肉体付与)という存在モード
・電子的存在としてのヤチヨの位置づけ
を検討し、両者がどのように整合するのかを考察する。
1. 前半部におけるかぐやAの存在形態
まず、物語前半に登場するかぐや(以下、かぐやA)の存在形態を整理する。
前半部では、かぐやAは竹取物語と同様に赤子として発見され、その後成長していく肉体的存在として描かれる。触れられ、抱えられ、生活空間を共有する存在であり、観測可能な物理的身体を持つ。
この段階では、月製の舟『もと光る竹』や外殻付与システムといった技術的説明は提示されない。したがって、前半部のかぐやAを直ちに後半のSF設定で説明することには慎重であるべきだろう。
したがって前半部は、神話的記述層として独立したレイヤーを保ちながらs、後半で技術的に再解釈される余地を内包していると考えるのが自然である。
1-2. かぐやAとヤチヨ(かぐやB)の存在モードの差異
一方、後半部に登場するヤチヨ(かぐやB)は、肉体的実体を持たない存在であることが明示されている。作中では水槽内の装置と電磁的に接続された状態で描写され、公式設定でもAIとされている。
整理すると、
・かぐやA = 肉体を伴う存在として観測される
・ヤチヨ(かぐやB)= 電子的情報体として存続する存在
という差異がある。
重要なのは、両者が別個体ではなく、時間差を持つ同一存在である点である。
この差異は人格の断絶ではなく、存在形態の変換として理解できる。
すなわち、同一の思念体が、
(1) 外殻を伴う物理的実装状態
(2) 外殻を持たない電子的実装状態
という異なる実装形式を取っていると整理できる。
2. かぐやはどのように地球へ来たのか
竹取物語の原典では、かぐや姫の来訪手段は説明されない。来訪は神話的出来事として提示されるのみである。
一方、本作では少なくとも何らかの大気圏突入体として描写されている場面が存在する。
これは、来訪が超越的現象ではなく、物理的移動として視覚化されていることを意味する。
したがって、本作は神話的来訪を単に引用するのではなく、それに物理的説明可能性を与えていると見ることができる。
3. 記憶の所在 ― もと光る竹という基盤
さらに、かぐやBは「自分の複製を作った」と語る。
電子的存在である以上、記憶は何らかの物理基盤に保存されている必要がある。
作中描写を踏まえると、その基盤は月製の舟『もと光る竹』である可能性が高い。
もと光る竹は外殻付与機能、環境解析機能、時間遡行アルゴリズムを備える中核装置である。
この構造を拡張すれば、思念体の記憶保存および複製生成の基盤として機能していると解釈することは十分可能である。
この場合、ヤチヨは単独のAIではなく、
・思念体 = 主体
・もと光る竹 = 記憶保存・実装基盤
という複合存在となる。
この整理に立てば、自己複製や長期存続は、個体の超越ではなく、基盤依存型の存在継続として理解できる。
4. 分身能力は本来的能力か
作中で彩葉はヤチヨを「AIライバー」「分身もできる」「八千歳」と説明している。
この表現は重要である。
もし分身能力が月人としての本来的能力であるならば、かぐや自身がそれに何らかの反応を示しても不自然ではない。しかし作中では、かぐやが自身も分身可能であることを示唆する描写は確認できない。
無論、単に反応しなかっただけの可能性も否定はできない。
しかしこの非対称性を重視するならば、分身能力は月人固有の能力というよりも、電子的存在となった後に実装された機能である可能性が浮上する。
すなわち、
・かぐやA = 肉体的実装状態(分身能力の描写なし)
・ヤチヨ = 電子実装状態(分身可能とされる)
という段階的変化として読むことができる。
この整理に立てば、両者の差異は能力差というよりも、存在段階あるいは実装層の違いに由来するものと解釈できる。
5. 2030年時点における同一性
2030年時点では、
・かぐや = 肉体的存在
・ヤチヨ = 電子的存在
という二重構造が成立している。
この段階では、両者は時間差を持つ同一個体として解釈可能である。
事故によって外殻を失った存在が電子的に継続していると読めるからである。
すなわち、
かぐやB = ヤチヨ
は成立する。
(補足)作品全体の時系列構造
ここまでの整理を踏まえ、作品全体の時間構造を一度俯瞰しておく。
以下は、分岐点を中心とした概念的時系列マップである。
6. ray以降に生じる構造変化
楽曲「ray」のMV(公式公開映像)における描写を見る限り、物語は新たな段階へ移行しているように見える。
とりわけ象徴的なのが、富士山頂に『もと光る竹』を埋める場面である。
この行為は、中央基盤(DB)依存からの離脱を示唆している可能性がある。
さらに重要なのは、この時点で物理的実体を持つかぐやと、電子的存在としてのヤチヨが並存しているように描かれている点である。
ここで問題となるのは、
・記憶はどこに保存されているのか
・8,000年分の記憶は誰が保持しているのか
という点である。
6-1. ray MVは確定未来か、IF表現か ― 時間とエントロピーの問題
ray MV における描写そのものが、物語本編の確定未来を示しているとは限らない。
MVは演出的表現であり、象徴的・情緒的なIF構造を含んでいる可能性がある。
ここで問題となるのは、時間の向きである。
物理的時間はエントロピー増大則に従い、不可逆に進行する。
8,000年という電子的存続は膨大な経験の蓄積を伴うはずであり、それが完全に消失することは理論上不自然である。
しかしrayに描かれるかぐやは、8,000年の連続経験体というよりも、より初期状態に近い存在として表現されているように見える。
もし時間が単純な一方向的進行であるならば、この描写は説明が難しい。
この矛盾を回避する方法は三つある。
(1) 8,000年の記憶は保持されているが封印されている
(2) 記憶は部分的転写にとどまる
(3) rayは時間軸上の確定未来ではなく、IFあるいは象徴的未来像である
特に(3)を採用する場合、rayは熱力学的時間軸の延長ではなく、「輪廻的時間」あるいは「並行分岐時間」の表現となる。
この場合、エントロピーの単調増加を前提とした連続存在モデルは適用できない。
したがって本稿では、rayを暫定的に時間軸上の未来として扱いつつも、エントロピー的不可逆性との整合が完全ではない点を留保しておく。
7. かぐやCという必要条件
この構造を説明するためには、新たに「かぐやC」を定義する必要がある。
かぐやCとは、ray以降に物理的実体として現れる再構成体である。
すなわち、
・かぐやB = ヤチヨ(事故由来の電子存在)
・かぐやC = 物理的に再実装された存在
という二層構造である。
BとCは、時間遡行アルゴリズム誤作動以前の段階までは起源を共有している。
時間遡行アルゴリズムが誤作動する以前までは、両者は完全に同一の存在であった。
分岐点は、隕石衝突とそれに伴う時間遡行アルゴリズムの誤作動である。
この瞬間を境に、
・事故線 = 電子存在として存続するかぐやB(=ヤチヨ)
・成功線 = 正常着陸体としてのかぐやC
という二つの時間線が発生したと解釈できる。
したがって、両者は起源を共有するが、分岐後は連続存在ではない。
少なくともCは、8,000年の連続経験体としては描写されていない。
両者は起源を共有しつつも、分岐後に固定化された異なる存在として読むのが妥当である。
7-1. 分岐以前の「かぐやb」という基点
分岐構造を明確にするためには、誤作動以前の同一存在を仮に「かぐやb」と定義しておくと整理しやすい。
時間遡行アルゴリズムが誤作動する以前までは、存在は単一であった。
隕石衝突と誤作動を契機に、
・事故線 = かぐやB(電子存在として8,000年存続)
・成功線 = かぐやC(正常着陸体)
へと分岐した。
この構造に立てば、CはBの経験を素材として再構成された存在ではない。
なぜなら、Bの8,000年経験は分岐後に生じたものであり、Cの成立とは時間的に接続していないからである。
したがって、両者は「分岐以前の同一性」を共有するが、分岐後は独立した存在として固定されている。
8. 再構成体Cと8,000年の不在
ray以降の描写を見る限り、3代目ボディに8,000年分の記憶が完全焼き込みされているようには見えない。
このことから、
・8,000年の記憶は転写されていない
・記憶は存在するが封じられている
という二つの可能性が考えられる。
いずれにせよ、Cは8,000年を連続経験した存在とは描写されていない。
このとき、
・B = ヤチヨ(8,000年電子存在)
・C = 再構成された有限存在
という対照構造が成立する。
9. 『人間になる』とは何か
ray MV において彩葉は
「私はかぐやを本当の意味で人間に…」
と入力している。
ここで問題は技術ではない。
・同一性は身体に宿るのか
・記憶に宿るのか
・基盤に宿るのか
という哲学的問いである。
10. 輪廻からの脱出
ヤチヨは語る。
「今もまた、同じ輪廻を巡っている。」
この輪廻とは、単なる時間の循環ではなく、事故によって閉じた時間構造に囚われた存在状態を指している可能性がある。
電子的存在として8,000年を存続したBは、時間を直線ではなく円環として経験している。
しかしrayにおいて、『もと光る竹』を埋める行為は、その円環構造からの離脱を象徴しているようにも見える。
竹は時間遡行アルゴリズムと記憶基盤の象徴である。
それを封じることは、輪廻を維持する装置を放棄することに等しい。
もしCが成功線の存在であるならば、それは永遠の存続ではなく、有限の時間を生きる存在である。
このとき輪廻の脱出とは、
永遠を保持することではなく、有限を選択することである。
それは技術的解決ではなく、存在論的決断である。
C. かぐやとヤチヨの関係性に関する小括
以上の検討から、かぐやとヤチヨの関係性は主に三つの観点に集約される。
第一に、時間的同一性である。時間遡行アルゴリズムの誤作動以前において、両者は完全に同一の存在であり、起源を共有している。
第二に、分岐構造である。隕石衝突とアルゴリズム誤作動を契機として、
・事故線 = 電子存在として8,000年を存続するかぐやB(=ヤチヨ)
・成功線 = 正常着陸体として成立するかぐやC
へと時間線が分岐した可能性が高い。
第三に、存在様式の差異である。CはBの経験を素材として再構成された存在とは考えにくく、分岐後は相互に独立した存在として固定化されていると読むのが整合的である。
総じて、本作におけるかぐやとヤチヨの関係は、単なる二重人格や別個体ではなく、起源共有型・分岐固定構造として理解するのが妥当であろう。
もっとも、ray以降の描写には象徴的演出やIF的表現が含まれている可能性もあり、時間線の確定については一定の留保が必要である。
総括
本稿では、『超かぐや姫!』に登場する技術要素を、
・A. スマートコンタクト(デバイス層)
・B. 仮想世界ツクヨミ(基盤層)
・C. かぐやとヤチヨ(存在層)
という三層構造で整理してきた。
Aでは、スマコンが極限まで役割を絞った超低消費電力デバイスとして成立し得る可能性を検討した。
Bでは、ツクヨミが中央集権的管理構造と国家級インフラに依存する巨大基盤である可能性を示した。
Cでは、その世界内部における存在の分岐構造を、時間遡行事故を起点とする同一性問題として整理した。
この三層を通して見えてくるのは、本作が単なるSF的演出ではなく、物理的制約・情報基盤・存在論的問いを重ね合わせた構造体であるという点である。
スマコンは物理制約に縛られ、
ツクヨミは巨大通信基盤に依存し、
かぐやとヤチヨは時間分岐に拘束されている。
それぞれが自由な世界を描きながらも、常に何らかの「制約」の上に成立している。
本作が描く未来は、無制限の解放ではなく、制約と選択の物語である。
技術は万能ではなく、世界は中立ではなく、存在は単純ではない。
その重なりの上に、『超かぐや姫!』という物語は成立している。
本稿の整理が、作品を別の角度から眺める一助となれば幸いである。